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「まきの聖修の、出せ静岡の底力」













外務省は過去の対中政策の誤りを猛省すべし


外交の誤りは国を滅ぼす


[2021.1.7]




12月23日に公開された外務省の外交文書の一部
PHOTO(C)NHK


「自由で開かれたインド太平洋」を排したバイデン次期大統領


 任期が残り僅かとなった米国のトランプ大統領は、これまで対中戦略の基礎として「自由で開かれたインド太平洋」という政策スローガンを頻繁に使ってきた。

 この「自由で開かれたインド太平洋」という表現は、元々は安倍晋三首相が2016年から対外的に唱え始めた用語であったが、トランプ氏が大統領就任後に、この安倍首相の立案したスローガンや政策をそのまま踏襲したものである。

 これは「対中封じ込め戦略」に基づく政策であり、共産党一党独裁の閉鎖的な統治システムの中国がインド太平洋における覇権を目指して進出しつつある状況に対抗する事を目的としている。

 ところがバイデン次期大統領は、11月12日、日本の菅首相、韓国の文大統領、オーストラリアのモリソン首相などの同盟諸国の首脳と相次いで電話会談をした際、一貫して「安全(secure)で繁栄(prosperous)したインド太平洋」という言葉を使い、それまでの米国政府の方針であった「自由で(free)開かれた(open)」という表現は使わなかった。

 さらにバイデン次期大統領は、11月16日のインドのモディ首相との電話会談においても「安全で繁栄したインド太平洋」という表現を使い、「自由で開かれた」という言葉は口にしなかった。

「自由で開かれた」という概念の撤回は、インド太平洋における米国の対中外交の根本的転換を意味している。

 トランプ政権が一貫して掲げてきた政策標語を敢えて排するというバイデン次期大統領の姿勢は、国家としての「外交の継続性」を否定したものと解釈する識者も多い。

 従来の「自由で開かれたインド太平洋」という表現が、自由主義と民主主義によって中国の一党独裁に対抗する意図が明白であるのに対して、「安全で繁栄したインド太平洋」という表現は、中国側が掲げても通用するような政策であり、中国の「一帯一路」に協力するスローガンになり得るのである。

 バイデン新政権の外交政策の転換は、これまで中国と強硬な対決姿勢を示してきたインドやオーストラリアなどの失望を招くことは必至である。

 今年2021年は、中国共産党にとって「建党100周年」にあたり、中国が非常に意識している年である。

 米国が対中宥和政策に転じるようであれば、今年はいよいよ習近平が世界覇権を目指して本格的な行動を開始する可能性が高い年でもある。



中国の覇権大国化を幇助した日本の外務省


 対中宥和政策によって外交上の大失敗を犯したのは、米国よりも日本の方が先であった。

 昨年末の12月23日、外務省は1987年から1990年に作成された外交文書を公開した。作成から30年が経過した外交文書については原則公開とする制度に基づく措置であり、今回公開された公文書は、26のファイルに収められた1万600ページ余りの量に及ぶ。

 注目すべきは、公開された外交文書の中に、1989年に中国で起きた天安門事件を巡り、日本政府が対応を協議した際の記録が含まれていた事である。

 今回公開された外交文書では、日本政府が天安門事件の当日から既に「中国を孤立化へ追いやるのは大局的見地から得策ではない」として、他の西側諸国とは一線を画する方針を決めていた事が明らかにされた。

 下記に掲げたのが、公開された公文書のほんの一部である。

天安門事件当日に作成された外務省の極秘文書の一部
 なお上記文書の日付が「平.元.6.4」即ち1989年6月4日となっていることから、この無期限「秘」扱いの政府方針は、天安門事件後に中国当局からの要望に応じたものではなく、日本側が一方的に中国当局の利益に適うように予め政府方針を策定していた事実を示している。

 また他にも、国際社会に向けて中国政府が示すべき「声明案」を日本の外務省が作成し助言をしていたことが、今回公開された外交文書で明らかになった。

 A4判1枚の「中国政府声明(案)」は、情報源を開示しない「内話(ないわ)」を記した89年6月27日付極秘文書と一緒のファイルに綴じられており、当時の阿南惟茂中国課長が中国側と懇談して助言をして作成した草案であった。

 その内容とは、
(1)今次事態は、純粋に中国の国内問題。一部の扇動分子が人民共和国の転覆を図ったものであり、党・政府はこれに断固反撃
(2)今次動乱において多数の死傷者が出たことは誠に遺憾。中国政府としてこのような事態を回避するよう最大限努力した
(3)中国においては、経済体制改革と並んで政治体制改革を推進しており、今後も民主を求める人民の合法的要求に十分配慮
(4)「改革と開放」は今後とも不変。中国は友好国との協力関係を引き続き希望
というものであり、阿南中国課長は、「(こうした見解が)明確に出れば、国際世論の印象も改善の方向に変わっていく可能性がある」と中国側に伝えたという。

 このように日本の外務省は、あたかも中国当局のスポークスマンのように働いていた事が明らかにされたのである。

 他にも、今回公表された公文書によって、下記の事柄が白日の下に晒された。

 天安門事件直後の6月15日、外務省の幹部が米政府高官との会談で、日本の対中経済協力を懸念する米国側に反論していた。この中で米国のロバート・フォーバー国務次官補代理は、「日本政府が中国に対する経済協力案件を次々と承認すればワシントンを刺激することになる」と指摘していた。これに対し、外務省アジア局の鈴木勝也審議官は、「西側の価値観や体制とは、共に異なる中国に同様の物差しを当て嵌めるのは無理がある。非民主的な国に機械的に経済協力を行わないということには必ずしもならない」と主張した。

 また、天安門事件直後の1989年7月14日~16日にフランスで開かれたアルシュ・サミットにおいて、議長国のフランスをはじめとする各国が、中国を厳しく非難する政治宣言の採択を目指したのに対し、日本政府が中国の孤立化を防ぐ為、より穏当な表現にするように働きかけていたことが明らかになった。

 サミットの議長国フランスが、開催前の7月4日に各国に示した政治宣言の叩き台では、中国政府の対応を「凄惨な鎮圧および処刑」と表現し、閣僚などのハイレベルの交流や軍事協力の停止、世界銀行による新規融資の延期など、ヨーロッパ4カ国が実施した制裁に言及していた。

 これに対し、日本側は同日、日本が中国への制裁に賛同したと受け取られないよう「各国の措置については言及しないほうが望ましい。各国の立場が固い場合はできるだけ抽象的な表現にするよう努める」などとした基本方針を確認した。そして、中国への非難は抑制的にした上で、対中制裁には言及せず、「中国の孤立化は欲しておらず、協調と自制の姿勢で国政運営にあたるよう強く要請する」という表現を宣言に盛り込む案で各国との協議に臨んだ。

 そうして7月7日に行われた事務レベルの協議では、日本側がまず「中国に関して特別の宣言を発する事を望んでいない」と述べたのに対し、他の全ての参加国が「宣言は必要だ」と主張した為、具体的な宣言案の検討に入った。さらに、日本側が中国への制裁については抽象的な表現とするよう求めたのに対し、米国が「具体的な措置への言及は不可欠だ」と主張し、西独も「具体的な措置に言及しない宣言は無意味だ」と発言した。

 そのため7月11日に行われた日米の交渉担当者による協議では、日本側は妥協案として、中国への制裁の言及を受け入れる代わりに、「我々は中国が孤立化することを意図するものではない」という文言を加えるよう求めたが、アメリカ側は「迫力が落ちる」と難色を示した。

 アルシュ・サミット初日の7月14日、宇野首相は、議長国フランスの交渉担当者のジャック・アタリ氏との昼食会で、「中国が自ら孤立化しないような改革を進める必要がある。それまではこういう姿勢をとる、あるいは見守るというような案文なら良いのではないか」と説得した。

 さらに宇野首相は7月15日の討議で、「心に留めておくべきは、今の中国は『弱い中国』であるということだ。歴史的に中国は、弱い時には常に強い排外的な姿勢を取ってきた。宣言を公にするに当たっては、言葉を慎重に選び、いたずらに中国人の感情を刺激し、彼らの態度を硬化させるべきではない」と発言した。

 結果として宣言には、「中国当局が、政治、経済改革と開放へ向けての動きを再開することにより、中国の孤立化を避け、可能な限り早期に協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すよう期待する」という日本の方針を反映した文言が盛り込まれた。

 このように、当時の日本政府の言動は、中国共産党のスポークスマンそのものであった。

「歴史にイフは許されない」と言われるが、もしアルシュ・サミットにおいて、日本政府が西側諸国と歩調を合わせて対中制裁に踏み切っていれば、その後の中国は少なくとも現在ほどの発展を見る事はなく、覇権大国にもなり得なかったであろう。

 当時の日本政府、とりわけチャイナスクールと呼ばれる親中派外務官僚によって支配された外務省には、真に反省が求められる。



今こそ真の「歴史反省」が必要な外務省


 今回公開された外交文書では、天安門事件後、英国のサッチャー首相が、中国に返還される予定の香港の将来について憂慮する発言をしていた事も明らかになった。

 サッチャー首相は、1984年に香港返還について中国と合意したものの、天安門事件後の1989年9月14日、千葉一夫駐英大使との夕食会で次のように述べたという。

「かつて鄧小平氏と話し合った際、鄧氏は英国政府も法律の下にある事をどうしても理解せず、『国家が欲すれば法律をそのように変えれば良い』と主張した。今日の中国の問題(=天安門事件)は、まさにこの考え方に根源があると思う」と、鄧小平の政治思想に懸念を示していた。

 そして、同月に日本を訪問したサッチャー首相は、中山太郎外務大臣と会談した際、「かつて鄧小平氏や趙紫陽氏と話し合った経験からは、天安門のような事件が起きることは予想できず、極めてショックだった。こうした事態は二度と起きてはならない」と述べ、「香港には500万人の住民がいるが、自国民にあんな事(=天安門事件)が出来るのなら、自分達はどうなるのかと不安を持っている」と述べ、それから8年後に返還する予定の香港の将来に懸念を示していた。

 サッチャー首相は、政治的直観で30年後の香港の状況を予見していたのであろう。鄧小平との対話の中で明らかになった「法の支配」に対する観念の欠如は、現在の中国共産党に継承され、今も悲劇が繰り返され続けている。

 さらに、今回公開された外交文書には、天安門事件について、鄧小平が日本経済界の訪中団に対し「国権は人権を圧倒する」などと正当化して語っていた事が記されていた。

 鄧小平は、党中央軍事委員会主席を辞任した直後の89年11月13日、斎藤英四郎経団連会長ら日中経済協会訪中団と北京の人民大会堂で会談し、「先般の動乱(=天安門事件)で我々は学生に極めて寛容だったが、この動乱は思想の混乱によって生じた」「人権と国権があり、国権は国の人格・国格の問題だ。人権が重いか、国権が重いかといえば、国権は独立、主権、尊厳に関わるもので、すべてを圧倒する」などと述べ、あくまでも天安門事件における虐殺を正当化したという。

 こうした人権軽視こそが中国共産党の一貫した本質であり、現在においてもチベット・ウイグル・内モンゴル・香港などで中国共産党による人権弾圧が進行中である。

 上記のような様々な情報がありながら、日本の外務省は対中支援政策に変更を加えることなく、結果として凶暴な人権弾圧の覇権主義大国を作り上げてしまったのである。

「歴史反省」が必要であるとすれば、これほど反省に値する事は他に無かろう。

 人類史上最大の犯罪集団である中国共産党への協力は、我が国の戦後外交における最大の過誤として、日本人と日本政府が永久に記憶し続けるべき負の歴史である。

 我が国の外務省に必要な事は、過去の侵略史観に起因する対中贖罪意識から脱却し、中国共産党の所業の数々を直視し、人権擁護に基づく外交へと転換する事である。











《財団概要》

名称:
一般財団法人 人権財団

設立日
2015年 9月28日

理事長:
牧野 聖修
(まきの せいしゅう)




 定款(PDFファイル)




《連絡先

一般財団法人
人権財団本部
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